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毎日のことなど
by ehonn_goma
おばあちゃんのこと。
3年前の晩秋に母方の祖母が93歳で亡くなった。
私にとって祖母は言葉で言い表せないほど大切な存在だった。

大正11年、祖母は熊本の田舎に医者の娘として生まれた。
女学校卒業後、上京して東京の女子大に入学。
地方から女子大に進学する人は、その当時としては珍しかったかもしれない。
卒業してから結婚するまで、家政科で助手を務めていたらしいので賢い方だったかもしれないけれど
のんびり屋の自分から見ても、ゆったりとした人だった。(母に言わせるとピリピリとした部分も多いにあったようだが)

祖母は5人のこどもを産み、18人の孫がいた。
孫の中でも、女子で一番年長の私は特別可愛がられていた。
(もしかしたら、他のいとこも同じように思っているかもしれないが)

毎年、夏休みには家族で必ず福岡に帰省する。
東京駅から新幹線で博多駅まで行き、駅前でタクシーに乗る。
母が「日赤の交差点を曲がって穴観音の方へ抜けてください」と告げるのは毎年変わらない。
大通りを進んでいき、大きな交差点を山の方へ曲がる。小山の頂上まで登ったら ジェットコースターのような下り坂を急降下。その急な坂道の途中を曲がると、石垣の上に瓦屋根の家が見えた。
息せき切って石段を駆け上がり、裏庭のパンジーを横目で見ながら門をくぐり敷石を踏む。

「おばあちゃん、来たよー」
格子の扉をガラガラと開けると、
「あらあら、よく来たねー」
前掛けで手を拭きながらニコニコ顏の祖母が出迎えてくれた。

これから私の幸福な一週間が始まる。
応接間の回転椅子に座り、クルクル回りながら、枯山水風の庭に目をやる。
松や大きい岩が奥にあり、手前には綺麗な玉砂利がたっぷり敷き詰められている。
応接間には暖炉と、こげ茶色のピアノ、革張りのソファ。棚には祖父が世界中で集めたお人形たち。
回転椅子をクルクル、クルクル1時間ほど回して気持ち悪くなるのが毎年恒例だった。

朝ごはん前には祖母が裏の畑で育てている野菜をもいできてくれる。
ミョウガやシソは味噌汁に。トマトやキュウリももぎたてを切って出してくれた。
濃いめの味噌汁が美味しかったな。

とにかく料理が上手。食材も新鮮で、魚屋さんが桶に入ったとれたての鯵やら届けてくれて
それをさっとフライにしてくれた。身が上品でびっくりするほど美味しかった。
福岡名産の「おきゅうと」と呼ばれる海藻で作った柔らかい刺身こんにゃくみたいなものも毎食出てきた。
うなぎもお鮨も東京で食べる何十倍も美味しくて、滞在の一週間は食べて食べて食べまくった。


また食べるだけでなく、私は祖母の後ろをついて料理、皿洗い、洗濯、掃除となんでもお手伝いをした。
小学生時分の私は大人しくいい子で、祖母にとっては可愛く、またわがままも言わない健気さが可哀想だったのかもしれない。

お盆には全国から従姉妹が集まり、いろんな部屋に勝手に雑魚寝。
寝つきの悪い私が、夜中に一階の居間に降りてくると祖母が一人掘りごたつで読み物や書物をしている。

「お腹が空いてるから眠れないと」と言って
押入れにあるクッキーの缶詰を出してくれて、たんまり食べさせてくれた。美味しかったな。

夏休み中に親戚全員でマイクロバスに乗って旅行に行くこともあったが、
みんなの居なくなった夏の終わりや春休みに私と祖母の二人きりでいろんなところへ出かけた。
福岡の志賀島や、阿蘇の山々を巡ったり、鶴を見に鹿児島の出水へ出かけたり。「対馬ってどんなところかな」と言ったら次の日に小型飛行機YSに乗って長崎の対馬へ一泊旅行に出かけたりした。
そういえば初めての海外も祖母との二人旅でアメリカデトロイトに住む叔母宅を訪ねる旅だった。

祖母は私の憧れの存在だった。とにかく美的センスが抜群。
書道、水墨画、水彩画、短歌、謡とたくさんの習い事を長く続けていたが
その中でも、祖母の作る短歌と水墨画が好きだった。
玄関にはいつも一輪挿しにきれいに花が生けられ、木造の家の壁も床もピカピカに磨かれていた。

夏休みは3時のおやつの後に1時間昼寝の時間がある。
「おばあちゃん、眠れないよ」と言ったら、
「これ、見るといいよ」と指差されたのは書棚にある土門拳写真集全集。
夕立の降る暗い客間で見た、広島の原爆投下後のこどもたちの写真、怖かったな。

おばあちゃんはお嬢様育ちだったせいか、結構な浪費家だったけれど、
国鉄職員を父に持つ祖父は反対にとても倹約家だった。

祖父は出張先にも自分の歯ブラシを持って行き、ホテルにある歯ブラシを持って帰っていた。
そのため、洗面所のカゴには何百本も歯ブラシがあり、その中から従兄弟たちと
「今年はこれ使う」と取り出すのが楽しみだった。
歯ブラシがたくさんあることが面白くて、選べることが嬉しかった。

東京に帰る朝には、家の前にタクシーが来てくれる。
石垣のしたで「バイバイ」と手を振るおばあちゃん。
こどもの頃は笑顔で手を振り続けたけれど、大学を出て社会人になってから訪れると
タクシーが角を曲がるところで涙が出た。

「次も必ず会えますように」そう願った。

私が結婚してからも、電話すると元気な明るい声で出てくれた。
いつも30分以上はおしゃべりしたね。

テンポも感覚も似ていて、おばあちゃんと電話で話すと元気が出た。

いつも思い出すのはおばあちゃんの「あっぱっぱ」と呼ばれる筒型のワンピース。
家用とお出かけ用があって、家用は絣の浴衣地でできていた。

庭から縁台を見ると、仏壇の前に寝転んでいるおばあちゃんの背中が見える。
手元にある週刊誌を読んでいるのかと思ったら、寝ているみたい。

「おばあちゃん、寝てるね」従兄弟たちとクスクス笑いながら近づくと
「あら寝てたかね〜?」とゆっくりと起き出してきた。

仏壇の固くなった仏さまのお米、「まんまんちゃん」と言って毎日食べていたね。
一度私も食べたら美味しくなかったけれど、おばあちゃんは毎日それをチンして食べていた。
食器棚にあった長崎のガラスのコップ。分厚くてきれいだったな。
いろんな種類の焼き物があって、中でも私は伊万里焼が好きだった。
もらった唐子の器は普段使っているし、源右衛門は飾っているよ。

友達の少ない私にとっておばあちゃんは大切な親友みたいな存在だった。

おばあちゃん、おばあちゃんが亡くなったから
自分も必ず死ぬんだって実感した。

いつか死ぬことが分かると、必要じゃないものが見えてきて
少しのものを大切にしようと思った。

実は奥さん同士の付き合いが苦手で、
家に来てくれる職人さんやお坊さんと話すのが大好きだったおばあちゃん。
その気持ち、なんとなく分かる。

生まれた時代も育った環境も私とおばあちゃんは全然違う。

戦中、戦後を生き抜いたおばあちゃんの逞しさも、おばあちゃんの上品さもないけれど
私もおばあちゃんのいいところ、もらえているかな?

私が向うに行ったら、また一杯おしゃべりしようね。

たくさん一緒に過ごせてよかった。ありがとう。おばあちゃん。

by ehonn_goma | 2016-08-11 20:52
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